健康経営の担当者にとって、年に一度の大きな課題、それは「健康診断の受診率」ではないでしょうか。
何度もリマインドメールを送り、時には未受診者に個別に声をかける。それでも、「忙しくて」「うっかり忘れていて」といった理由で、なかなか受診率が100%にならない…。そんな悩みを抱える企業は少なくありません。厚生労働省の調査でも、特定健診の受診率は依然として高いとは言えない状況です。
この問題の根源は、従業員の「面倒くさい」という気持ち、つまり**「現在志向バイアス(将来の健康という大きな利益より、目先の予約の手間を避ける心理)」**にあります。また、「自分は大丈夫だろう」という**「正常性バイアス」**も、行動を鈍らせる一因です。
本稿は、健康行動デザインシリーズの最終回です。従業員に「お願い」するのではなく、**行動科学に基づいた「通知のデザイン」**によって、心理的なハードルを下げ、つい「すぐ予約してしまう」状況を作り出すための、3つの具体的な仕掛けを解説します。
人が行動を先延ばしにする最大の理由の一つは**「手続きの複雑さ」**です。案内メールが長文だったり、予約サイトの入力項目が多かったりすると、それだけで「時間がある時にやろう」と思考を停止させてしまいます。
この課題解決のヒントは、英国政府の行動科学チーム「BIT」の有名な事例にあります。彼らは、税金の督促状の文面を、専門用語だらけの長文から**「あなたが支払うべき税金は〇〇ポンドです。このサイトから支払ってください」**という、極めてシンプルな文章に書き換えました。その結果、納税率は劇的に向上しました。健診の案内も全く同じです。従業員に考えさせず、行動までの摩擦(フリクション)を限りなくゼロに近づけることが重要です。
案内をシンプルにしても動かない層には、メッセージの内容そのものに、人の心を動かす心理的トリガーを盛り込みます。特に有効なのが**「社会的証明」**と**「損失回避」**です。
「社会的証明」とは、前回のコラムでも触れた「みんながやっているなら自分も」という心理です。一方、「損失回避」とは、ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンらが提唱した理論で、「何かを得る喜び」よりも「何かを失う痛み」を2倍以上強く感じるという人間の特性を指します。
人は、一度でも自ら「やります」と意思表示をすると、その後の行動に一貫性を持たせようとする**「コミットメントと一貫性」**の心理が働きます。この習性を利用し、健診を予約するという大きな行動の前に、小さなコミットメント(約束)を引き出すのです。
例えば、ある研究では、診察の予約をした患者に、予約カードを自分で書かせただけで、無断キャンセルの割合が大幅に減少したという結果があります。これは、自らの手で書くという「積極的な行動」が、無意識のうちに「予約を守る」という約束を強化したからです。大掛かりな仕組みは不要です。従業員に小さな「はい」を言わせるきっかけを作るだけで、行動は変わります。
健康診断は、従業員の健康を守り、企業の持続的な成長を支えるための重要な入り口です。
その受診率を高める鍵は、根性論や催促ではなく、人の心理を理解し、行動への障壁を丁寧に取り除く科学的なアプローチにあります。
ウェルネスドアは、貴社の健康課題に合わせた、効果的なコミュニケーション戦略をデザインします。
監修:ウェルネスドア合同会社 代表 狩野 学
【免責事項】
本記事は、一般的な情報提供を目的としたものであり、特定の効果を保証するものではありません。健康診断の結果や個人の健康状態については、必ずかかりつけの医師や専門家にご相談ください。
【主な情報源】
・厚生労働省「特定健康診査・特定保健指導の実施状況」
・The Behavioural Insights Team (BIT) "EAST: Four simple ways to apply behavioural insights"
・ダニエル・カーネマン「ファスト&スロー」