駅や商業施設で、エスカレーターに乗る直前に一瞬、あるいは数秒間立ち止まる高齢者の方を見かけたことはないでしょうか。急いでいると「早く乗ってくれれば…」と感じてしまうかもしれませんが、その一瞬の停止には、加齢に伴う心身の変化と、転倒を防ぐための無意識の防御反応が隠されています。
これは単なる「迷い」や「ためらい」ではありません。健康寿命を考える上で重要なキーワードである「ロコモティブシндром(ロコモ)」や「フレイル」、そして「転倒への恐怖」という、専門的な観点から深く分析することができます。
ウェルネスドア合同会社の「エキスパートインサイト」コラム、今回はこの日常の何気ない光景に潜む、高齢者の心と体のサインについて専門的に解説します。
私たちが普段何気なく行っている「エスカレーターに乗る」という行為は、実は非常に高度な身体能力と認知機能を要求される動作です。
これら一連の動作を、わずか1〜2秒の間に行わなければなりません。しかし、加齢に伴い、これらの能力は少しずつ低下していきます。その低下が顕著に現れ始めるサインが、ロコモティブシンドローム(ロコモ)とフレイルです。
つまり、エスカレーター前での一瞬の停止は、「移動機能を司る運動器の衰え(ロコモ)」の兆候であり、それが「心身全体の活力低下(フレイル)」へと繋がる入り口である可能性を示唆しているのです。
では、具体的にどのような要因が、エスカレーター直前での「停止」につながるのでしょうか。
ロコモが進行すると、筋力、特に体幹や下半身の筋力が低下し、平衡感覚も鈍くなります。静止した床から動くステップへ片足を乗せる際、一瞬片足立ちに近い状態になりますが、この時に体を安定させることが難しくなるのです。
これらの身体的変化を脳が察知し、「このまま行くと危ない」と無意識にブレーキをかける。これが、乗る直前の「立ち止まり」として現れます。これは、転倒を防ぐための極めて合理的な自己防衛反応なのです。
動くステップの速度、奥行き、自分の足元、手すりの位置。エスカレーターに乗る際には、多くの視覚情報を瞬時に処理し、自分の体の動きを協調(コーディネート)させる必要があります。
しかし、年齢とともに情報処理速度は遅くなる傾向があります。
「ステップが来た」→「右足を乗せよう」→「手すりを掴まないと」
これらの思考と判断にコンマ数秒の遅れ(タイムラグ)が生じることで、スムーズな乗り込みができず、一度立ち止まってタイミングを計り直す必要が出てくるのです。これは特に、周囲が混雑している場合や、下りエスカレーターで先のステップが見えにくい場合に顕著になります。
高齢者にとって「転倒」は、単なる怪我では済みません。骨折から寝たきりになり、そのまま要介護状態に陥るケースが非常に多いことを、ご本人たちが一番よく理解しています。
過去にヒヤリとした経験があったり、友人や知人が転倒で入院した話を聞いたりすることで、「エスカレーターは危険な場所」という認識が刷り込まれていきます。この転倒への予期不安が、体を硬直させ、第一歩を躊躇させる大きな心理的バリアとなるのです。
特に、ステップに乗り損ねて後ろに倒れたり、降りるタイミングを逃して前のめりになったりする事故は後を絶ちません。この恐怖心が、行動を起こす前の「安全確認」のための停止時間を長くさせています。
エスカレーター前で立ち止まっている方を見かけたら、急かさずに少し距離を置いて待つ配慮が大切です。ご本人が自分のタイミングで安全に乗れるよう、静かに見守ることが一番のサポートになります。
エスカレーターに乗る前の一瞬の停止は、決して本人の意識が低いわけでも、誰かの邪魔をしようとしているわけでもありません。それは、ロコモやフレイルといった加齢による変化に体が適応しようとする、切実なサインなのです。
このサインは、ご本人やご家族が「少し運動機能が落ちてきたかな?」と気づくための重要なきっかけとなります。
こうした早期の気づきと対策が、ロコモやフレイルの進行を食い止め、転倒を予防し、ひいては健康寿命を延ばすための最も効果的なアプローチとなります。
日常の何気ない行動の変化に目を向けること。それが、ご自身と大切な人の未来の健康を守る第一歩となるのです。
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ウェルネスドアの専門家(管理栄養士・理学療法士)が、企業の健康経営をサポートするプランをご提案します。
狩野 学(かりの まなぶ)
ウェルネスドア合同会社 代表
アメリカスポーツ医科学会認定トレーナー
【主な情報源】
・一般社団法人 日本エスカレーター協会「エスカレーターの安全利用について」
・公益財団法人 長寿科学振興財団 健康長寿ネット「ロコモティブシндромの予防と対策」「フレイルとは」
・消費者庁「エスカレーターでの事故に御注意ください!」